事例研究(中絶の権利) 2022/06/25

【米最高裁、「中絶の権利」覆す判決 社会の分断一段と】~日本経済新聞


<記事抜粋>

米連邦最高裁は24日、人工妊娠中絶を憲法上の権利と認めた1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆す判断を下した。

中絶の権利に対する憲法の保障がなくなり、全米の半数以上の州が中絶の禁止や厳しい制限に動く見通しだ。

バイデン大統領はホワイトハウスで演説し「最高裁は米国民の憲法上の権利を奪った」と批判した。

判決文は「憲法は中絶の権利を与えていない」と明言。

ロー対ウェイド判決は無効とし、中絶を規制する権限は「国民と国民に選ばれた代表に戻す」とした。

州が中絶を規制することを認めた。

米グートメーカー研究所によると、判断を受けて全米50州の26州で中絶が事実上禁止または大幅に制限される見込みで、その多くは保守地盤の州だ。

例えば南部ルイジアナ州では21日、中絶を実施した者に最高で禁錮10年、罰金10万ドル(約1350万円)を科し、性的暴行や近親相姦(そうかん)による妊娠にも例外を認めない中絶規制強化法が成立した。

最高裁の判断と同時に発効する。

一方で民主党地盤の州は中絶への保険適用を拡大するなど中絶の権利保護を強化している。


<争点>

中絶権は憲法上の権利か?


<所感>

逆説的だが、米国に比べて人権後進国とみられる日本では、人工妊娠中絶の権利は実定法上の権利として確立している。

仮に我が国の母体保護法を廃止して、すべての人工妊娠中絶を非合法化したとすると、当該法の廃止措置は、生殖に関する意思決定の権利(reproductive rights)の侵害に当たるとして、幸福追求権(憲法13条)に関する議論が生じるだろう。

中絶の権利をめぐっては、①胎児に法律上の人格を与え、その生命を保護するために、理由のいかんを問わずすべての人工妊娠中絶を認めるべきではないとする立場と、②強制性交等の非人道的な原因による望まぬ妊娠から女性を解放すべく女性に選択権を残しておくべきであるとする立場が対立している。

米国では、①の立場を pro life(生命尊重派)と呼び、②の立場を pro choice (選択権尊重派)と呼ぶ。

中絶権を認めるべきか否かの議論は、とかく感情論になりがちだが、ここでは極力法論理によって説明していく。

中絶権を含むリプロダクティブライツ(生殖に関する意思決定の権利)が日本国憲法上の権利として保障されているかという問題については、個人の尊厳の原理を根本原理とする日本国憲法の趣旨・理念に照らし、個人の人格的生存に不可欠な自律的意思決定の権利が幸福追求権(憲法13条)の一内容として保障されていると解すべきであるところ、生殖に関する意思決定の権利は、自己意識を持ち人格を有する地球上唯一の生物である人間が、本能に突き動かされて衝動的に繁殖行動に出ることを敢えて拒絶するという態度決定をすることができるという意味において、人間固有の意思決定権というべきであるから、個人の人格的生存に不可欠な自律的意思決定の権利に含まれ、幸福追求権(憲法13条)の一内容として憲法上の権利と位置付けられなければならない。

もっとも、中絶権を無制約に認めることができるかという問題については、消極的にならざるを得ない。

なぜならば、自己堕胎罪(刑法212条)が妊婦自身による堕胎を処罰の対象としているのは、胎児の生命ないしその萌芽を保護法益としているからであり、妊婦の恣意によって胎児の生命の萌芽を消滅させることを禁止しているからである。

しかし、中絶権に対する憲法上の制約根拠を「公共の福祉」(憲法13条)に求めるのは性急であり、まず胎児の人権享有主体性の議論を尽くさなければならない。「公共の福祉」はあくまでも人権相互間の調整原理と解されているからである。

なお、中絶の意思決定に参与する権利又は中絶を阻止する権利を、女性のパートナーたる男性に認めるべきか否かという議論も考えられるが、これは議論の平面が異なる問題だろう。

さて、リプロダクティブライツは、中絶権のみから成るものではなく、パートナーシップを持った男女の間で子どもを持つか否かの合意形成をする自由(子どもを持つ自由・持たない自由)、パートナーシップを介さずに精子バンク、卵子バンクを使って子どもを持つ自由、分娩方法の選択の自由(無痛分娩を選択する等の自由)、ひいては養子縁組をする自由も広い意味ではリプロダクティブライツの一内容と言って差支えないだろう。

すなわち、リプロダクティブライツは、法律婚の有無や性交渉の有無とは異なる次元で、パートナーシップを持つ以前の段階、パートナーシップを持ち始めた段階、懐胎した段階という各段階に応じた権利内容から成る複合的な性格を有するものと解される。

日本において中絶権を完全に否定することが憲法違反となるかという問題に戻ると、これは違憲審査基準を定立して判断するまでもなく、憲法違反となる。

なぜならば、現行の母体保護法が、一定の制約の下で中絶権を具体化しており、同法の要件を充たす限りにおいて中絶を選択する権利がすでに法律上及び憲法上付与されている以上、かかる合法的人工妊娠中絶制度を廃止すること自体がただちに女性の中絶権を奪うこととなり、かかる中絶権侵害の必要性・合理性を政府が立証して正当化することは困難だからである。

米国の連邦最高裁は、49年間にわたって米国民の憲法上の権利と信じられてきた中絶権を、「49年前の最高裁判例は誤りであり、中絶権は憲法上の権利ではない。」と断定してしまった。

権利の性質はちがうが、喩えて言えば、日本の最高裁が急に「肖像権ないし容貌姿態をみだりに撮影されない権利は憲法上の権利として保障されていない。京都府学連事件最高裁判決は誤りであった。」と明言するくらいのインパクトがある判決内容である。

以前、本判決の草案がリークされたときに投稿した際にも触れた記憶があるが、米国における中絶権に関する賛否の議論は、多分に宗教上の信念に立脚して展開されているきらいがあり、そこにリベラルな政治信条に根差す民主党と保守的な政治信条に根差す共和党の二大政党の対立が絡んで、米国民が分断されている。

記事を読んだ方はすでに分かっていると思うが、端的に言うと、中絶権を否定する今般の米国連邦最高裁の判決が出てしまった原因は、ひとえにトランプ前大統領の恣意的な最高裁判事任命のせいである。

独任制の行政権最高機関である大統領が、自己の政治信条におもねる者のみを最高裁判事として任命し、最高裁がその思惑どおりの司法判断をしてしまうところが、米国の大統領制の危険なところであり、米国流の「徹底的な、厳格な三権分立」がまったく機能していないのは甚だ残念である。