『凡庸な芸術家の肖像』について

通勤時間を利用して読書をしていますが,最近ようやく『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』(蓮實重彦著)を読了したので,感想めいたことを書きます。

最初に断っておきますが,私は,マクシム・デュ・カンの本を一冊も読んだことがありません。

では,どうして私がマクシム・デュ・カンの生涯について論じたこの本を読んだのかというと,私が蓮實先生の大ファンだからという理由しかありません。

いや,大ファンというのは言い過ぎでした。蓮實先生の著書をまだコンプリートしていないので,小ファンくらいにとどめさせていただきます。

さて,本題に戻ると,マクシム・デュ・カンという人は,現在,その母国フランスでもほとんど読まれていない「マイナー」作家ですが,その名をフランス文学史の中でやや残念な仕方で残した人物です。

『ボヴァリー夫人』の著者ギュスターヴ・フロベールの偉大さについてご存じの方もそうでない方も,とにかく偉大な作家であるということを前提にこの文章を読んでほしいわけですが,このフロベールの友人がマクシム・デュ・カンなのです。

ただ,交友があった,というだけでは格別残念な出来事にはなりません。残念なのは,マクシムがギュスターヴの葬儀に参列できなかったこと,マクシムが『卑劣漢』とのそしりを受けたこと,そして彼が所属する組織において,本来述べるはずだったヴィクトル・ユゴーへの弔辞を述べることができなかったこと,等々の出来事です。

蓮實先生は,マクシムが現代に通じる先駆的な創作活動を行っていたにもかかわらず,それがなぜ後世に残る仕事にならなかったのか,にもかかわらずアカデミー・フランセーズの一員となれたのはなぜなのか,ということを,実証主義的手法を用いて暴露していきます。

実証主義的,というのはあくまでも「的」であって,実証主義ではありません。

蓮實先生は,本書について,マクシム・デュ・カンその人には決して似ていない「虚構」である,と仰っています。しかし,誰もマクシム・デュ・カンを知らないわけですから,本来,蓮實先生は「これが真のマクシム・デュ・カンだ!」と強弁しても誰も疑いもしないのです。こういう奥ゆかしいところに,私は,蓮實先生の仏文学者としての良心を感じとります。

本書の仏語タイトルには「凡庸さの発明」という言葉が入っています。19世紀のフランスにおいて,「凡庸」という概念がいかにして歴史的に形成されてきたか,ということを通奏低音として「凡庸」な「芸術家」の一つの肖像を描くのが本書の骨子です。

蓮實先生は,「芸術家」という概念も歴史性を帯びているというごく当然の事実も確認します。

そして,天性の「芸術家」ではなかったマクシムが,にもかかわらず自身の「努力」によってアカデミー・フランセーズの会員にまでのしあがっていく,というビルドゥングス・ロマンとしても読むことができる本書ですが,本書は,ただ文学・芸術について書かれている書物ではありません。

古来散見されていた政治と文学の共犯関係が19世紀フランスの第二帝政期において猖獗を極めるありさまを論証することが本書の一つの目的ではないか,とさえ思えてきます。

私はほとんど読書をしない人間ですが,マイナーな作家を「読む」ことの困難さとそれを読んだ時の快感というものを表象するのが本書なのではないかという仮説を立てて,これをとりあえずの結論に代えておきます。