「習っていない問題が出た」ではなく、「今ある知識で解こうとしたか」である


最近は,ニュース記事を素材として,法的な観点から分析する投稿が続いていたから,少し趣向を変えて,学習法について,以下のダイヤモンドオンラインの記事を素材に考察してみたい。



記事に出てくる「瞬読式勉強法」は眉唾っぽいが,記事のタイトルは,一定の体系的知識を習得し研究対象事象の分析道具として有機的組織化するうえで,一面真理を突いている。 


 自分の体験を振り返ってみると,昔,大学受験勉強をしていたとき,駿台予備校の名物英語教師伊藤和夫先生の著書の中で,「英単語は全部覚えようとするな。英文法と或る程度の語彙力が身に着いたら,英文を大量に読んで,文脈から未知の単語の意味を推測する訓練をせよ。」という教えが説かれていたのを覚えている(あれは,「英文解釈教室」の序文だったと思う。)。

 私は,伊藤先生のこの教えを信じ,英文法の学習と或る程度の英単語の暗記を同時並行で行い,その後はかなりの量の英文を読んで,単語の意味を推測する習慣を確立したところ,英語が得意科目になった。 

 現役で第一志望の大学に合格できたのも,英語が得意になったからであり,伊藤先生には今でも感謝している。 

 リスニングの訓練は一切しなかった(当時は大学受験でリスニングが必須ではなかったため)ので,いまだに英語を聴きとることはできないが,大学受験勉強のおかげで英文を読む力は今でもかなり残っている。 


 人間の記憶力(正確には想起する力)に限界があるということは誰しも経験上明らかといって良いだろう。 

「私には無限の記憶力(想起力)がある」,という人には,この記事は無意味であるが,申し訳ないけれども私はそういう人は万能幻想の妄想に駆られている虚言癖の人間としか評価できない。

 人間には,大なり小なり有限の記憶力(想起力)があり,何でも無限に覚えられる人がいないのと同様にあらゆることを一切覚えられないという人はめったにいない(そういう病気の人がいるのは事実だが)。


 私は,長年,資格試験受験業界で教育に携わってきたなかで,「まず覚えよ。そして覚えながら理解せよ。」と言い続けてきた背景には,上記の伊藤先生の教えがある(この記事を読むまではほとんど自覚していなかったが。 )。

しかし,自分が言い続けてきたことがやはり正しかった,このことが証明された,という思いである。 


 個々の知識はそれだけでは問題解決の道具としては使えない。 

 問題のテーマ(主題)について事前に一定の知識を身に着けることは大前提であるが,試験で実際に出題される新規の「問題」は,学習者が身に着けた知識だけを問い尋ねているわけではない。 

 試験における新規の「問題」が問うのは,学習者が既に身に着けている知識から体系的に正しく推測して導出される別の知識であり,これがいわゆる「正解」である。 

 この「正解」が文字として書かれているテキストもあれば,書かれていないテキストもある。 

 同じく,「正解」を事前に教える講師もいれば,教えない講師もいる。 

 では,「正解」が書かれているテキスト,「正解」を事前に教える講師の方が優れている,ということになるだろうか? 

 残念ながら,そうではない。 

 なぜなら,学習者は,「正解」が書かれているテキスト,「正解」を事前に教える講師の講義の全部を暗記することができないからである。 

 最初にも述べたとおり,人間の記憶力(想起力)は有限である。 

 したがって,まず必要最小限の暗記事項を覚えてしまい,それを核にして体系的理解を身に着け,問題演習を通じて知識の,道具としての使い方を体得していくことが必要である。

 

知識を道具として使う,とはどういう事態を指すか。

それは,伊藤先生が教導し,上掲のダイヤモンドオンラインの記事でも示唆されている「既存の知識からの適切な推測」である。

「勉強」というのは,この「既存の知識からの適切な推測」の能力を養う行為である。


この最終命題を支える前提命題は,

①「個々の知識に関する記憶力(想起力)は有限である。」と,

②「試験に出題される新規の問題に対する「正解」の知識は,解答者にとって常に欠落している。」

という2つの命題である。


①も②も自分には妥当しない,という人にとっては前提自体誤りであり,「勉強とは,既存知識からの適切な推測の能力を養う行為である。」という最終命題も誤りであるということになるが,そういう人の主張が信じられないということは既に述べたとおりである。


さて,上記の2つの前提命題及び「勉強とは,既存知識からの適切な推測の能力を養う行為である。」という最終命題が正しいとして,過去の試験問題(過去問)を検討する際に注意しなければならないのは,過去問の正解を覚えようとしてはいけない,ということである。

そうではなく,既存の必要最小限の知識からどのように推測していけば正解にたどり着くことができるかを真剣に考えることが必要であり,これが過去問を「勉強する」ということの意味である。


新規の試験問題の正解を出すのに必要な知識は,解答者にとって必ず「欠落」している。

逆に,解答者が既に持っている知識で正解できる問題は「新規」の問題ではなく,既知の問題である。


たいていどの資格試験でも,難関と言われるものでは,必ず一定数の「新規」ないし未知の問題が出題される。

そして,難関資格試験の合格ラインは,たいていこの「新規」ないし未知の問題を一定数正解しないと合格できないように設定されている。


そうすると,難関資格試験の合格を目指す人は,いやでも「新規」ないし未知の問題を解く能力を養わなければならない。

この能力は,自分に欠落している知識を現場で正しく推測・思考し的確に補う能力である。


たいていの資格試験予備校講師が行っているのは,理屈抜きで覚えなければならない必要最小限の知識(いわゆる「基礎知識」)の指摘と,この「基礎知識」によって構成される「体系」を受講者に理解させることである。


受講者にありがちな誤解で,ときに講師も誤った指導をしている例が,「まず理解してから覚える。」という命題を基礎とした学習方針である。


私の職業柄,法律系の資格試験に偏った話になってしまうが,法律系の難関資格試験では,一定の法的知識と基礎的な法解釈能力が問われる。

長年勉強し続けてもなかなか目標とする資格試験に合格できない受験者の主な特徴として,①基礎的な法解釈能力の涵養が不十分であること,②正確に記憶しておくべき法概念の定義等の必要最小限の知識が不正確であること,というものがある。


私の持論であるが,法解釈論の学習は,多分に外国語学習に似ている。

それは歴史的な必然である。

なぜならば,我が国の法解釈学は,ことごとく欧米から輸入された理論を基礎として構築されており,民事・刑事・公法の各法領域における基礎概念自体が元々外来語だからである。

いわば外国語を訳して日本語に置き換えたものが我が国における法学上の基礎概念であるから,外国語を学習するように,それぞれの定義を正確に覚えていかなければならないのは当然のことである。


英語と民法を対比してみると,英語においてまず覚えておかなければならないのは一定数の英単語の意味であり,英語における体系的理解は英文法・英語構文法の習得により実現される。

他方,民法においてまず覚えなければならないのは,「権利能力」,「意思能力」,「行為能力」などの基礎概念の定義であり,民法における体系的理解は民法典が採用するパンデクテンシステムの理解を通じて獲得される。


学生時代に中高生に英語を教えたことがある経験をふまえて言えば,英語を教えるときに,英単語をほとんど知らない生徒に,いきなり英文法から教えたりはしない。

まず,一定の単語を覚えさせ,単語の小テストと並行しながら英文法・英語構文法を教える,というのが英語教育の王道である。

私は,社会人になってから,資格試験対策講座で民法等の法律科目を教えるときにも,基本的には,英語を教えるときと同じスタンスで教えている。

民法でも行政法でも,最初は言葉の意味を覚えてもらうところから指導を始める。

そして,体系的理解を獲得してもらうための工夫としては,可能な限りクロスリファレンスを意識的に行う。

例えば「信義則」という原則は,民法総則の冒頭で登場するが,これが後々,「無権代理と相続」という論点とかかわってきたり,「安全配慮義務」という概念とかかわってきたり,「使用者責任」における求償制限・逆求償という論点等の様々な論点とかかわってくることを示唆し,実際にこれらの論点が登場した際に,民法1条2項を読み返すように指示して,クロスリファレンスを意識づけるよう努めている。


一般的な学習法の話から,法律学習の各論的な話に深入りしてしまったが,「理解してからでないと覚えられない。」とか「理解しないで丸暗記しても意味がない。」という言葉は鵜呑みにしない方が良い,というのがとりあえずの結論である。

英語だったら,単語を覚えながら,英文法を理解するのが当たり前と思われているのに,法解釈学だと,概念を覚えながら体系を理解していくという学習法が邪道のように扱われるのはどうにも腑に落ちない。

そもそも,「理解」を強調する資格予備校講師自身が本当に法を理解できているかも怪しいと思うのだが,これ以上続けると特定の講師に対する批判になりそうなので,このあたりでやめておこう。