事例研究(死刑廃止論) 2022/07/27

【「生命権の侵害だ」EUが死刑執行の停止求め声明 秋葉原・無差別殺傷事件】~毎日新聞


<ツイートの引用>


加藤智大死刑囚の死刑が執行されたことを巡り、駐日EU加盟各国大使らは執行停止を求める声明で「犯罪の抑止力として機能せず、誤審があった場合に取り返しがつかない」と訴えました。


<争点>

死刑廃止の是非


<所感>


死刑廃止論者の主要な論拠は、駐日EU加盟各国大使の声明のとおり、①犯罪の抑止力として機能していないことと②死刑執行後に誤判が判明した場合に取り返しがつかないことの2点である。

犯罪の抑止力として機能していない、というのは、たとえば殺人を企図した者が死刑に処せられることをおそれて犯行を思いとどまるという因果関係が証明されていない、ということを意味する。

たしかに、世を儚んで「みんなを殺して俺も死ぬ」という心境に至った者は、死刑を恐れて犯行を思いとどまるものではない。

このような一種の集団自殺願望が凶行の形で実現される不幸な例は後を絶たない。

ただ、「みんなを殺して俺も死ぬ」と当初は思っていても、いざ大量殺害を実行した後で我に返って、自分は死にたくないという利己心から犯行を否認する被疑者・被告人も少なくない。

このように利己的な被疑者・被告人に適正な処罰を科すという意味において、死刑の存置に一定の合理性があると考えられる。

これは行刑目的論とも関連してくることだが、純粋な教育刑論を採用すると死刑は完全に廃止しなければならない。なぜなら、教育刑論による行刑目的はもっぱら犯人の矯正教化にあるところ、犯人の生命を剥奪してしまうと矯正教化自体が不可能となるからである。

他方、応報刑論と教育刑論を折衷する立場(相対的応報刑論)を採用すれば、犯人の矯正教化に加えて、その者が実行した行為に相応した刑を量定することが必要となり、結果があまりにも重大であるとか、行為態様が極度に悪質である等の事情を考慮して、それに見合った処遇として死刑を科すこともやむを得ないと判断されるケースもあるだろう。

なお、死刑制度を存置している我が国では、行刑目的論については、相対的応報刑論を採用していると解するのが通説である。

死刑廃止論の第一の根拠に対しては、相対的応報刑論を採用する我が国の科刑・行刑実務が、国民の意識・感情を反映したものと考えられることから、死刑を完全に廃止する根拠として十分なものではないといえるだろう。

ただし、国民の意識・感情は固定的なものではなく、時代とともに変遷することをふまえると将来的に死刑を廃止すべきとする国民意識が醸成された段階で廃止を検討する、という議論のプロセスを繰り返すことは重要である。

死刑廃止論の第二の根拠は、廃止論者にとって決定的な根拠である。

裁判官も人間である以上、100パーセント誤判を回避することは不可能である。

現行の三審制は、誤判を検証する機会を確保し、可及的に誤判を減らすという機能を有している。

しかし、最高裁判所裁判官も人間であって、誤判を100パーセント回避することはできない。

このことは、過去の最高裁判所の法解釈・適用を、後世の最高裁判所が否定し撤回して新たな判断をする(つまり判例変更)ことがありうるという事実から明らかである。

他の事柄についてはこのように事後的に誤判を検証して是正するという仕組みで対処することは許されるだろうが、こと死刑に関しては、このような事後検証のシステムだけで本当に執行してよいのかという疑問が払拭できない。

人間の生命は不可逆的である。

それは、被害者はもちろん、加害者についても同様である。

死刑が執行された後の段階で、実は誤判による死刑宣告だったと判明しても、既に手遅れになっている。

誤判による死刑宣告はあり得ないし、いまだ一件も該当する例が存在しない、と死刑制度肯定論者は反論するだろう。

しかし、ヒューマンエラーをどこまで許容するかという論点と、間違って無辜の人間を国家が殺害してよいかという論点は別次元の話であり、「誤判による死刑宣告はあり得ないし、いまだ一件も該当する例が存在しない」と主張する者も、実際にその「一件目」の事例が発生してしまったら、死刑廃止論に転向しなければならなくなるだろう。

日本の戦後の刑事法学を文字通り作ったと言って過言ではない刑事法学の泰斗(むしろ神様というべき偉人。)である故・団藤重光東京大学名誉教授・元最高裁判所判事が、死刑廃止論を強固に唱えた主たる論拠は、やはり誤判によって無辜の人を国家が殺害することを避ける点にあった。

加藤受刑者のような人間は死刑執行されて当然だ、と被害者遺族やこれに共感する人たちは思うのだろう。

それが素朴な遺族感情というものだ。

しかし、加藤受刑者や、やまゆり園の事件の植松被告人のような人間も含めて、「死刑相当」と判断された人間を死刑に処することが、真の問題解決につながるのか、という問題意識は常に持っていたいと考えている。

私は死刑制度に積極的に反対してはいないが、田宮裕先生の『刑事訴訟法』と団藤先生の『死刑廃止論』を読んでから以後、無辜の不処罰という考え方は常に頭から離れない。

「こいつは絶対に大量殺人を犯しているから、死刑を執行してもよかったんだ。」という一般的国民意識に吸い寄せられるように自分の意識が傾くこともある一方で、本当にそれでよかったのかと自問自答することもしばしばある。

一つだけ自分にとって明証的なことは、殺されても仕方ない生命はなく生命はすべて平等だ、ということである。

それは、安倍さんにももちろん当てはまるし、同様に加藤受刑者にも当てはまるということを意味する。